田中功起さんの展示はアイデンティティや、生の意味を取り戻していく過程
水戸芸術館現代美術ギャラリーでの田中功起さんの展示を鑑賞した。
最近さまざまな展示を見るたびに「私は作品を消費しているのでは?」と思う。
上記リンクでも引用されてるように、ボードリヤールの言う"消費社会の消費者はモノではなく記号を消費している"というのが、なんかしっくりきてる。
そしてseizeponzuさんの"その豊かさの清純さに隠れて、人間が本当の意味でアイデンティティや、生の意味を消失していく過程である"というところに共感を覚える。
で、田中功起さんの展示はアイデンティティや、生の意味を取り戻していく過程を追っていたのだろう。
展示はワークショップの映像とその時使用したものやその時作られたもので構成されていた。そしてワークショップ参加者と制作者それぞれのインタビュー映像があった。
インタビュー映像では、それぞれがワークショップを振り返っていたり、参加した理由や参加しなかった理由を語っていたり、それぞれの境遇を語っていたりする。
そこで、ワークショップだけでは見えてこなかった一人一人の顔が見えてくる。
作者は「共同体であり、同時に個である」ということを表したかったのかもしれない。
それにしても山の中での非日常的な営みをしなければ「共にいることの可能性、その試み」は実行できなかったのだろうか?
日常生活はそこまで他者に関わることから遠ざけられたものになっているのだろうか?
田中功起の日常は「共にいることの可能性」が無く「その試み」すらも実行できないものなのだろうか?
確かに自分ごととして捉えたとき、あるプロジェクトとして存在しない限り「共にいることの可能性」が無く「その試み」すらも実行できない現実が見える気がした。
こんな風に展示を振り返りながらも、「私は作品を消費しているのでは?」という思いが常にある。
私にとってこの展示は、あるドキュメンタリー映画をチャプターごとに歩いて移動しながら観たというものだった。
そしてメイキングや制作者インタビューがもともと好きだから、特にインタビュー映像が印象に残っているのだろうと思う。
ところで「消費」ってどういうことだろう。。
消費(しょうひ、consumption)とは、欲求を満たすために財・サービス(商品)を消耗することを指す。資源を使用することでもある。生産の反意語。
記号消費、機能消費、快楽的消費、顕示的消費と4種類あるらしいが、「共感消費」というものが書かれた記事があった。
展示やワークショップのタイトルなり説明書きなりに共感するから参加する。
あとは作家さんの考え方に触れたくて鑑賞する。それ「共感消費」かも。
いや、展示を見て消耗するのは自分の気力と体力だから、「私は作品を消費しているのでは?」に対する答えはどちらかというと「違います。消化不良を起こしてます。」が正しい。
だから、展示の振り返りをきちんとすることで「消化して排泄しています。」って自分に言ってやりたいものだ。
消化→排泄・種まき→稔り→収穫→消化……って感じで循環させられたらベスト✨